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師匠 林のりゆきの遺訓

季語を制約と取るか機能的に捉えるかによって、その人の俳句観が理解できる。
(それは定型と言うことをどう捉えるかにも拘わってくる事だが)。

私は「切れ」の問題と同じレベルで季語を、俳句を「詩」たらしめる最重要要因とあつかっている。

俳句は他の文芸と同じように、先ず感じるところから始めなければならない。
感じると言うことは自分の心を対象物に投げかけ、そこから返ってくる物を捉えることである。
こちらから働きかけないで、何で対象物からの語りかけを感受できるだろうか。
それが季語との付き合い方だと思っている。

 季語は、日本人が長い間積み重ねてきた美意識と自然現象と生活感覚とが体系的に集大成されたものであり、
日本人の本来的に持っている共通の伝統的感情・感性の創造物である。
季語一つで瞬時に共通の心的世界が構築されるのだ。

従って、適切な季語の斡旋が短詩型表現の中で作者の心の有りようを伝える上で最重要な事の一つである。
決して、「季語が無ければならない」のではなく、「季語が働いていなければならない」のである。

私の場合、季語の斡旋だけで2〜3日かかる事はザラである。
季語が「付きすぎ」とか「唐突」だとか言われるが、所詮は「働いているか否か」なのである。
「切れ」による詩的イメージの構築とともに季語による心象構築こそ俳句を「詩」たらしめている物だと強く感じる。

歳時記 あべにゅー
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リンゴのひとりごと